Evernote Version 3.1.0 Beta 2

最近このブログ、ほとんど書いてませんが、ちょこっと別の使い方を模索してみます。

MacEvernoteのβのアップデートが来ました。
内容は以下の通り。

Version 3.1.0 Beta 2 (04/27/2012) build 245270
Improvements:
 Support for switching between accounts
 MultiSelect performance and design improvements
 Stability improvements
Bug fixes:
 Dragging a note into its own note editor no longer crashes
 Misc. bug fixes
Known Issues:
 Crash when renaming sample shared notebook
 Crash when signing out, then signing in as same user on Snow Leopard
 Crash when editing multiple notes in single-note windows

一回アップデートを試みて、ものの見事に失敗し、なぜノートの移行がまったく進まない状態に。
仕方なく、もう一度通常バージョンをダウンロード。34000ノートだとやっぱり時間がかかります。
で、そこからβへのアップデート。

無事終了。

改善点として、「複数アカウントの切り替えに対応」みたいなものがあがっています。メニューには「ログアウト」の表記があり、それをぽちっと押すと、アカウントの入力画面が出てきます。

Evernoteは無料でもけっこう使えてしまうので、複数のアカウントを持つ手段は結構ありかと思います。

サブアカウントを作る
・ノートブックの共有を使う
iPhoneでみたいノートブックだけを共有
iPhoneのアプリはサブアカの方と紐つける
iPhoneでその他のノートが見たい場合は、withEverを使う

みたいな感じですね。

Mac上からも複数アカウントが管理できるようになったので、上のような運用方法も無理がなくなったと言えるかもしれません。この辺はまた実験が必要でしょう。

空白感の重たさ

最近、キュレーションサイト「scoop.it!」を使って、Evernoteに関するBlog記事なんかをキュレートしています。

http://www.scoop.it/t/evernote-news

キュレートと言っても、大した作業ではありません。scoop.it!が「提案」してくるニュースやブログ記事などを見ながら、「これ、採用」「これボツ」などと判断し、「紙面」に載せるものをセレクトしているだけです。

この作業をしていると、「空白」についていろいろ思うことがありました。

ある程度の基準を持って、記事を選別しようと思うと、日によっては「特に紙面に上げられるようなものがない」ということもあります。そういう時に、「ちょっと、基準を下げて(あるいは変えて)でも何か更新したほうが良いだろうか」という気持ちが湧いてきます。

Webの世界に長くいると、「更新しないと、読者に飽きられる」という強迫観念じみたものが生まれてくる、というのは少々大げさかもしれませんが、それに近い気持ちがあるのかもしれません。

今のところは、その気持ちをぐぐっと抑えて、何もピックする記事がないときは、紙面の更新はなしにしています。

しかし、よくよく考えると、日本のメディアというのは、毎日この状況に追い込まれているのでしょう。

ほとんど毎日発行される新聞。毎週発売される週刊誌、毎日放送されているテレビ番組。

たとえ、その時間帯、その枠で取り上げるべき話題がなくても、「今週はちょっとやめておきます」というわけにはいきません。枠があれば、それを埋めなければいけないわけです。

こういう状況で、毎回同じクオリティーを維持していくというのはかなり大変なんだろうな、という気がします。

でも、新聞の4面とかが「今日は取り上げるニュースは特にありませんでした」とか書いてあったら、やっぱり読者は納得しないんでしょうね。

だから、無理矢理話題を作り上げたり、あるいはたいしたことないことでも大げさに宣伝したり、といったことが起きる・・・・・・のかもしれません。

私は物書きとしては、「書きたいことを書く」というスタンスを維持しようと心掛けています。つまり、書くべきことがなければ書かない、ということです。
※幸いなことに、現状書きたいと思っていることが山ほどあるので、本を書く動機がなくなる、ということはなさそうですが。

対してBloggerとしては毎日更新する、という目標を持っています。こちらの場合は、毎日一つは何かを取り上げざるを得ません。

同じ文章を書くという作業なわけですが、その裏側に潜む哲学性には、何か違いがあるきがします。どちらかというとBloggerの視点は、編集者さんのそれに近いものがあるかもしれません。

ということを考えているヒマがあったら、目の前の原稿を片付けよう、というもう一人の自分からのツッコミがはいったので、この辺で終わりにしておきます。

主体性を持つor発揮する

最近メルマガのBizArtsというコーナーで「七つの習慣」を読み込む、という企画をやっています。精読、という感じではなく、あくまで私なりの読みかを紹介する、という感じですが。

で、今第1の習慣をやっているんですが、ちょっと気がついたことがあります。

第1の習慣は「主体性を発揮する」。私はなんとなくの感覚で「主体性を持つ」だと思ってました。この二つの言葉はよく似ていますが、意味するところはまったく違います。

「主体性を持つ」という表現の場合、もともとないところにそれを持ってくる、というようなイメージがあります。

しかし、「主体性を発揮する」の場合であれば、本来持っているものの力を出す、というニュアンスがあります。

「主体性」というのは主体的なものなわけで、「あなた、主体性を持ちなさいよ」と言われて、「はい。持ちます」と答えたとしたら、それって本当に主体的なの?という疑問がわきます。誰かにアドバイスされて持つ主体性と、主体的に持つ主体性というのは、若干違うものではないかな、という気がしていました。

しかし、「発揮する」の場合はちょこっと違います。誰かに渡されるモノではなく、もうもともとその人が持っているものなのです。持つとか持たないとかじゃなくて、どうしようもなく存在しているもの。それを邪魔している「何か」をちょっと外そうよ、という感じです。

その誰かが「人」であれば、自我があり、そこに価値観というものが少なからず付随してきます。でも多くの場合、その自我や価値観は周りの人たちの(あるいは世間の)価値観によって、押しつぶされ、ひしゃげてしまっていることが多いのかもしれません。

そういうのを一旦取り外し、自分自身の手で(あるいは足で)自分の人生を生きてみなさい、というのが「主体性を発揮する」ってことなんじゃないかな、と思います。

似ている言葉ですが、やっぱりかみしめると違いが出てくるものです。

英語でどう表記されているのか気になるところですが、時間の持ち合わせが少ないのでスルーします。

ちなみに、メルマガはこちら(ステマではありません)。

論理パズル的な

Facebookで論理パズル的なものが流れてきたので、びくっと反応してしまいました。こういうの結構好きです。

FBの写真をそのまま使うのもなんなので、自分で書き起こしてみました。

おっそろしく雑な絵ですが、シチュエーションはなんとなくわかるのではないかと思います。

4人の男の子が部屋の中にある。AくんとBCDくんの間には壁があって、お互いの状況を確認することはできない。男の子たちは、

部屋にいるのは4人
帽子はそれぞれ白黒二つずつ

ということが知らされています。また、ルールとして、

自分がかぶっている帽子を見ることは不可能
後ろを振り向いて確認するのも不可能

こういう状況です。

「自分が何色のキャップを被っているかわかった人は声を出して答えてください」と部屋の外から先生が問いかけると、しばらくの沈黙があった後、自分のキャップの色を当てた少年がいます。それはA、B、C、D4人のうち誰で、その理由はなぜ?という問題。

問題は理解できたでしょうか。

では、考えてみましょう。「直感」はひとまず置いておいて、「論理」的に考えていきます。

もちろん、このA〜Dまでの男の子とは論理的推論力を持つエージェントという設定です。

〜自分が考えたい方は、この先読んじゃダメ〜

こうした問題は一つ一つきちんと確認していく作業が大切です。

まず、Aくんから行ってみましょう。

Aくんの前には壁があり、他の三人の帽子的状況は何もわかりません。この段階では何も分かりませんね。

A→わからない

次にBくんです。BくんもAくんと似たような状況に置かれています。よって答えは分かりません。

B→わからない

続いて、Cくん。CくんはBくんががぶっている帽子が見えます。手持ちの材料がAくん、Bくんに比べると多いです。が、現状それだけです。Bくんがかぶっている帽子が分かっただけでは何もわかりません。

C→わからない

最後にDくん。DくんはB、Cくんの帽子が見えます。

しかし、B、Cくんは、それぞれ違った色の帽子をかぶっており、それだけではDくんの自分の帽子が何かはわかりません。もし、B,Cくんが同じ色(白でも黒でも)の帽子をかぶっていれば、帽子の全体量的に、Dくんは自動的に自分の帽子の色が分かります。つまり、B,Cくんがかぶっている帽子とは逆の色を言えばそれが正解になるわけです。

が、現状の帽子のかぶり方では何もわかりません。白の帽子も、黒の帽子もあと一つずつ残っているからです。

D→わからない。

んっと、結局A〜Dまで誰も分からない、という結論になりましたね。これが先ほどの問題文にあった、「しばらくの沈黙」にあたります。

「自分が何色のキャップを被っているかわかった人は声を出して答えてください」と部屋の外から先生が問いかけると、しばらくの沈黙があった後、自分のキャップの色を当てた少年がいます。それはA、B、C、D4人のうち誰で、その理由はなぜ?という問題。

A〜Dくんの状況を一通り考えてみたところで、新しい情報が手に入りました。つまり、それぞれの男の子が答えられていない、という状況。これもヒントになります。

ここで鍵を握るのが、Dくんです。単純に考えて、一番情報量が多いのがDくんです。彼に注目するのは当然でしょう。

その彼が答えられていない状況にCくんが気がつけば、光明が差し込みます。

Dくんの論理的推論をCくんがなぞることができれば、いいかえれば、Dくんが問題直後に答えを出せてないという状況から、かれの頭の動きを知ることができれば、一つの情報が手に入ります。

つまり、(Dくんの目から見て)BくんとCくんは違う色の帽子をかぶっている、という情報です。おそらく成績トップであろう(一番高い場所に座っているから)Dくんが答えを出せていない、それはつまり僕とBくんが違う色の帽子をかぶっているに違いない。そして、Bくんは白色の帽子をかぶっている。つまり、僕の帽子の色は黒に違いない。

とこういう展開になります。よって答えを出せるのは、Cくんです。

蛇足ですが、もしBくんがCくんと同じ論理を展開できて、かつCくんが自分の帽子の色を答えたのを聞くことができれば、BくんはCくんの答えと逆の色を言えば正解にたどり着けます。

しかし、Aくんは、他の人の状況が情報にならないので、答えを出すことはできません。そしてAくんが答えを出せなければDくんも答えを出すことはできません。

と、まあこんな感じです。

こういうのは論理パズルを解くだけではなく、麻雀で相手の手の内を推し量るときなんかにも使えます。便利です。

情報摂取

『情報の呼吸法』で、津田さんは情報との接し方を呼吸にたとえられた。

私は、栄養摂取、つまり食事にたとえたいと思う。

そう考えたとき、ふとあるシーンが思い出された。確かテレビ番組だったように思う。食事に関する番組。

その番組では、「食育」など人と食事の関係が扱われていたのだが、その中に一人の男性の食事風景が「実例」として紹介されていた。

彼は、徹底的に偏食であった。偏食、というのも少し違うかもしれない。ジャンクフード、お菓子をひたすら食べる。私たちが一般的にイメージする「食事」はほとんど取らない。そして、その合間に栄養サプリメントを飲み込む。

最終的にそれで栄養バランスがとれている、のだそうだ。

私は栄養学についてほとんど知識がないので、彼の言い分が正しいのかどうかはわからない。

ただ一つだけ言えるのは、それを見てうらやましい気持ちも、あこがれもまったく湧いてこなかった、ということだ。

その食事風景からは「豊かさ」といったものは一切感じられなかった。手軽に手に入るジャンクフードも、科学的に生成されたサプリメントも、ある意味では資本主義の勝利がもたらしたものであるにも関わらず、私の目にその食事風景は貧しさという彩りを持って映っていた。

現代の情報摂取も、これと同じような風景が広がっているのかもしれない。

好き勝手に入手できる情報。それらをひたすら頭に入れる。ケーキを食べればおなかがいっぱいになるように、ジャンクな情報も脳の知的好奇心をすぐに満たしてくれる。そして、その不足分を埋めるかのように、古典の成分だけをうまく「まとめた」サプリメント的情報を放り込む。そして、「最終的にそれで栄養バランスがとれている」としたり顔で断言する。

これは確かに「高度に洗練された」情報摂取の方法なのかもしれない。でも、これは彼の食事風景とまったく同じに見える。

功利的な効果があるかどうかは別として、こういう情報化社会だからこそ、じっくりと自分の手で、自分の頭で古典を読むというのは、一種の豊かさではないかと思う。

必要な情報は、必要に応じて検索すればいいのだから、「読書」の時間は、読みやすい、他の人が理解の肩代わりをしてくれた情報ではなく、自分の頭をフル稼働して、壁にバンバンぶつかって、一冊の本に取り組む。そういう情報摂取のスタイルを取りたい。

少なくとも、私はそういうスタイルをかっこよいと思う。たとえ周りがそれを、古くさい、と評したとしても。

iOS開発日記

MacBookAirが13に成長して、SSDとかメモリとかに余裕が出てきたんで、そろそろXcodeに手を出し始める。といっても、別にアプリ開発者になりたいわけではなく、自分が望むタスク管理アプリを作りたいだけである。

だから、体系的な知識とか他の人に伝授できるレベルに達する、という野望はこれっぽっちもない。それよりも時間の比重は書くことと読むことに置きたい(それが仕事だ)。

なので、自分が望む機能を実装するための最低限度の知識を少しずつ仕入れていく、という方式をとることにする。応用力は皆無だが、それぐらいで十分である。

ということは、まず一番最初に「自分がどのようなアプリを望むのか」をある程度決めておかなければならない。幸い多数のiPhoneアプリを触ってきているので、どのような機能が実装可能かは類推できる。その辺を踏まえながら、現実的かつ効果的なアプリを作りたいと思う。

というわけで、まずは、紙の上でのアイデア出しから。

ちなみに、本当に基本的な導入は

http://www.appbank.net/2011/12/24/iphone-news/342008.php

を読んだ。

あとは一冊ぐらい本を購入したいのだが、なかなか「これだけ読めば、タスク管理アプリが作れます!」という本がないので、セレクトが難しい。しばらく本屋に通う度にコンピューター系の棚とにらめっこするかもしれない。

戦略的、ではない

たまに私自身に対して、「戦略的」とか「まじめ」という評価をもらうことがある。
この二つの評価は、自分にとってかなり違和感あるものだ。少なくとも自分のことを自分で評した場合このような評価は出てこない。

もちろん、ジョハリの窓ということもあるので、そういう側面が私の中にあるのかもしれない。
が、私自身はかなり「行き当たりばったり」で「ふまじめ」な感じで生きてきたような気しかしない。

じっくりと自分の内側を眺めると、私の中にあるのは「向上心」と「責任感」の二つしかないような気がする。しかも「向上心」ですら、「知的好奇心」によって導かれているものだ。

「その先の風景ってどんな感じなんだろうか」という好奇心を原動力にして、階段を上ってきたような気がする。

なので私の人生には「戦略」も「夢」も特にない。舞台が与えられたら、その中で全力を尽くす。新しい舞台が回ってきたら、それに乗ってみる。その繰り返し。

もしかしたら、そういうのも戦略と言えるのかもしれない。