複数の職業的顔

これまでを振り返ってみると、いくつかの「仕事」上の顔を持ってきた。

一つは、「売り手」。コンビニだ。コンビニでは別に商品を開発しない。本部やらメーカーが開発した物を「どのように売るか」というだけがメインの仕事になる。営業やマーケッターとしての視点が強く必要とされる。

現状は、「作り手」。何をどう作るか、という部分がメインで、どのように売るのかという販促は出版社あるいは各書店さんの領域ということになる。
※もちろん、著者もこういう分野の仕事がないわけではない。あくまでメインフレームの話だ。

そして。ブロガー。ブログというのは実に面白くて、大抵は「作り手」と「売り手」が同一の存在だ。何をどう作り、どう売るのか、というのが一人の手に委ねられている。

基本的に20代をコンビニ店長と過ごしてきたので、営業やマーケティングは得意ジャンルである。だから、販促活動なんて、庭みたいなものである。が、一応著者としてはそういう部分はあまり表に出さないようにしている。ある種の制約を課しているといってもよい。
※その理由は割愛。

でも、舞台がブログならば、そういうマーケッターの顔がちょろちょろと顔を出してくる。そういうときは特に押さえない。

例えば、4冊目の本の献本PR。今までは発売直後にメディアマーカーさんで献本PRを実行してきた。大抵は中の人が先に献本PRしてくださっているので(ありがとうございます!)、それに引き続きという形になる。

これまでの3冊はずっとそのパターンだったので、今回はやや期間をおいてからにしてみた。ようは、短期集中的に盛り上げるのが良いのか、それとも忘れるぐらいの期間をおいてリマインドさせるよな形が良いのか、の比較検証というわけだ。

あとサインの有無。

献本PRで送る本は基本的にサインを書いていない。これにもちゃんと理由がある。

が、その理由とは別に、献本PRのページではサインについては触れず、ブログの紹介でサインについて触れると、そのコメントでブログ経由でそこにたどり着いた人がどの程度いるのかが少しだけ見えてくる。そういうのも一つの情報だ。マッケッターはそういうのにとても敏感なのだ。

というぐらいに、自分自身にとって「マーケティング」という考え方が身に染みついているので、時々「販促のやり方がわからない」という人を見ると、えっ!?という感じになる。

でも、よくよく考えると、私が複数のわらじを履きすぎているというだけなのかもしれない。まあ、なんだっていいわけだが。

章立て

これまでに4冊の本を書いているわけですか、いまだかつて最初に立てた章立て通りに書けたことがほとんどありません。

もちろん、全然違う形というわけではないんですが、構造の組み換えは頻繁に起きてきます。

なんというのでしょうか、書いている内に自分が理解できることってあるんですよね。で、その理解した視点からみると、最初に立てた構造がどうも違う、と感じる。

重要だと思っていたことが、重要ではなく、あんまり重要と思っていなかったことが、実は重要。

そういう自分から見えている世界が変わっちゃうと、そのまま進めるのがとても難しくなるんですよね。まあ、そのままごり押しして書くことも(あるいは)できるのかもしれませんが。

作業的には書き直し、構造の再構築が行われるわけですから、いわば回り道です。でも、その自分が見ている世界が変わる感触というのはとても素敵なものです。他者からの感想ではなく、自分自身においてその仕事をやっていて良かったな、と感じことができます。

たぶん、純度100%のKJ法でアプローチするとこういう改変は行わなくてもよいのかもしれません。

最初に章立てして、書き進めながら構造を再構築していくというのは、部分的なKJ法の適用です。

でも、なんというのでしょうか、企画会議に通りやすそうな「章立て案」というのは、きっとあるんですよね。実務的な面で、つまり先に頭で考える章立てというのも、そういう意味では必要なのかもしれません。

言葉だけ

選択と集中」という言葉がある。経営においては基本中の基本と言われている。
この言葉を知っている人は多い。でも、それは言葉だけではないだろうか。

その選択に、どのぐらい勇気が必要なのか

その集中に、どのぐらいのエネルギーが必要なのか

本当の意味で理解している人がどの程度いるだろうか。

シゴタノ編集後記より

本を書いたり、何かを考えたりしているときに一番楽しいのが「パラダイムシフト」の瞬間です。今まで自分が考えていたものごとが一瞬のうちに塗り替えられ、再構築されていく感覚。ゆーりか!といって走り回る気持ちも十分理解できます。たぶん世の中にはゆーりか中毒になっている人も少なからずいるんでしょう。きっと。

ロールプレイとストーリーテリング

ロールプレイングの時代。
「こういう人はこう振る舞う」というルール(必ずしも明示されるものではない)があって、いかにそのルールにそって行動するのかが問われる時代。

ストーリーテリングの時代。
自分でルールを決めて、それに従って生きる時代。しかもそれを他者に物語として語れる力が必要とされる時代。

時代という区分よりは、二極化した生き方と言えるかもしれない。正義ではなく、環境による適性があるだけ。

光と影

感想をいただく。面白いという感想も、面白くないという感想も。
どちらもありがたい。

もし、面白くないという感想がなければ、きっと慢心してしまうだろう。
イノベーションは体系的に廃棄されなければいけない。

もし、面白いという感想がなければ、きっと邁進できなくなってしまうだろう。
エンジンには、燃料が注ぎ込まれなければいけない。

光があれば影もある。
光があるから影がある。

フィードバック中毒

ずっとコンビニで働いていたので、データがないとなかなか不安になる。

コンビニは小売りの中でも在庫管理が非常に細かい。
POSレジとEOSシステムで、店内の在庫はすぐに把握出来る。

売り上げも一日単位だけでなく、1時間単位で確認できる。気が向けば何時何分に何が売れたまで確認できる。1週間前の売り上げと、去年の売り上げの比較も楽チンだ。

そういう環境にずっといたので、フィードバックを働かせて仕事をするというのが当たり前になっている。しかもその期間はかなり短い。

が、本の執筆はそうは行かない。数ヶ月は「今やっている事がどういう結果になるのか」というのがまったくわからないまま作業を進めていかなければいけない。これはかなり>けっこうきつい。

その点ブログは全く違和感ない。その日の更新分の結果は次の日のアクセス数でだいたいわかる。※もちろん、時間が経った後に他の人の役に立つということはあるにせよ。

でもまあ、一つの本を書いている時には、前の本の感想なんかを目にすることはできるので、「自分の方向性は間違ってないんだな」と確認することはできる。というか、これができなかったら、きっと続いていないんじゃないかな、とすら思う。それぐらいタフな作業です。