情報摂取

『情報の呼吸法』で、津田さんは情報との接し方を呼吸にたとえられた。

私は、栄養摂取、つまり食事にたとえたいと思う。

そう考えたとき、ふとあるシーンが思い出された。確かテレビ番組だったように思う。食事に関する番組。

その番組では、「食育」など人と食事の関係が扱われていたのだが、その中に一人の男性の食事風景が「実例」として紹介されていた。

彼は、徹底的に偏食であった。偏食、というのも少し違うかもしれない。ジャンクフード、お菓子をひたすら食べる。私たちが一般的にイメージする「食事」はほとんど取らない。そして、その合間に栄養サプリメントを飲み込む。

最終的にそれで栄養バランスがとれている、のだそうだ。

私は栄養学についてほとんど知識がないので、彼の言い分が正しいのかどうかはわからない。

ただ一つだけ言えるのは、それを見てうらやましい気持ちも、あこがれもまったく湧いてこなかった、ということだ。

その食事風景からは「豊かさ」といったものは一切感じられなかった。手軽に手に入るジャンクフードも、科学的に生成されたサプリメントも、ある意味では資本主義の勝利がもたらしたものであるにも関わらず、私の目にその食事風景は貧しさという彩りを持って映っていた。

現代の情報摂取も、これと同じような風景が広がっているのかもしれない。

好き勝手に入手できる情報。それらをひたすら頭に入れる。ケーキを食べればおなかがいっぱいになるように、ジャンクな情報も脳の知的好奇心をすぐに満たしてくれる。そして、その不足分を埋めるかのように、古典の成分だけをうまく「まとめた」サプリメント的情報を放り込む。そして、「最終的にそれで栄養バランスがとれている」としたり顔で断言する。

これは確かに「高度に洗練された」情報摂取の方法なのかもしれない。でも、これは彼の食事風景とまったく同じに見える。

功利的な効果があるかどうかは別として、こういう情報化社会だからこそ、じっくりと自分の手で、自分の頭で古典を読むというのは、一種の豊かさではないかと思う。

必要な情報は、必要に応じて検索すればいいのだから、「読書」の時間は、読みやすい、他の人が理解の肩代わりをしてくれた情報ではなく、自分の頭をフル稼働して、壁にバンバンぶつかって、一冊の本に取り組む。そういう情報摂取のスタイルを取りたい。

少なくとも、私はそういうスタイルをかっこよいと思う。たとえ周りがそれを、古くさい、と評したとしても。