主体性を持つor発揮する
最近メルマガのBizArtsというコーナーで「七つの習慣」を読み込む、という企画をやっています。精読、という感じではなく、あくまで私なりの読みかを紹介する、という感じですが。
で、今第1の習慣をやっているんですが、ちょっと気がついたことがあります。
第1の習慣は「主体性を発揮する」。私はなんとなくの感覚で「主体性を持つ」だと思ってました。この二つの言葉はよく似ていますが、意味するところはまったく違います。
「主体性を持つ」という表現の場合、もともとないところにそれを持ってくる、というようなイメージがあります。
しかし、「主体性を発揮する」の場合であれば、本来持っているものの力を出す、というニュアンスがあります。
「主体性」というのは主体的なものなわけで、「あなた、主体性を持ちなさいよ」と言われて、「はい。持ちます」と答えたとしたら、それって本当に主体的なの?という疑問がわきます。誰かにアドバイスされて持つ主体性と、主体的に持つ主体性というのは、若干違うものではないかな、という気がしていました。
しかし、「発揮する」の場合はちょこっと違います。誰かに渡されるモノではなく、もうもともとその人が持っているものなのです。持つとか持たないとかじゃなくて、どうしようもなく存在しているもの。それを邪魔している「何か」をちょっと外そうよ、という感じです。
その誰かが「人」であれば、自我があり、そこに価値観というものが少なからず付随してきます。でも多くの場合、その自我や価値観は周りの人たちの(あるいは世間の)価値観によって、押しつぶされ、ひしゃげてしまっていることが多いのかもしれません。
そういうのを一旦取り外し、自分自身の手で(あるいは足で)自分の人生を生きてみなさい、というのが「主体性を発揮する」ってことなんじゃないかな、と思います。
似ている言葉ですが、やっぱりかみしめると違いが出てくるものです。
英語でどう表記されているのか気になるところですが、時間の持ち合わせが少ないのでスルーします。
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