社会を基礎つくる力、その欠落

さまざまな問題が持ち上がる日本の社会。複雑さがそれ自体で自立しているかのようにどんどんと厄介さを含んだ問題を生み出している。
じっと近くで眺めてみても、少し離れてみても、何か得体の知れないものを見つめているように感じられる。
似たようなことは昔にもあった、という意見もあれば、それは日本の衰退を表象している現象で現代病の一種だ、っという意見もある。
そのどちらが正しいのかということを判断するすべは無い。おそらくはるかに時計の針を進めて、過去を振り返ったときにしかそういう検証というのは成立しないものであろう。
今いる状況が歴史的にどのような位置づけなのか、という正しい認識とはまったく関係なく、われわれは生み出され続ける問題に直面し、それに挑んでいかなければならない。

問題が複雑に見えるのは日本から均一性というものが失われつつあるからだ、という風に考えられる。一定のモデルが成立し、正しい生き方というのがまがりなりにも多くの国民に信頼されていたときは、そこで生み出される問題も均一化していたはずである。
個の自立、自由というものが叫ばれ、社会の手厚い保護がなくなり、中流という仮想が消えてなくなった今ではやはりそれぞれが含む問題というのは複雑化せざる得ない。

そういったさまざまな問題を考えいくうえでひとつ基盤になりうるものはあるのだろうか。

薄れる「人のつながり」に警鐘…国民生活白書

今回で50回目となる白書は、家族、地域、職場という3つの「場」での人の「つながり」に焦点を当て、個人や社会に与える影響を分析した。長時間労働やIT(情報技術)化などで、いずれの場でも人間関係が希薄化し、個人の精神的不安定、家庭でのしつけ不足、地域の防犯機能や企業の人材育成能力の低下など、経済・社会に深刻な影響を与えると警鐘を鳴らしている。

私はやはり人と人の関係、コミュニケーションというものがかなり重要なのではないかと思う。
先の記事でいうと、家族、地域、職場という三つの場が上げられている。この三つで大抵の人間が存在する場というものを埋めてしまえる。友人関係というのはある人では家族に属するかもしれないし、地域に属するかもしれない。極端に狭い生き方ならば職場に属していてもおかしくない。家族(友人)、地域、職場、の三つで人がほかの人間と関係性を持つ場というのはほとんど埋まるという状況は今も昔もほとんど変わっていない。
コンピュータが普及し、ネット環境がチープ化する中では昔は小さく無視できた趣味での人間関係というものの割合も大きくなりつつある。
そうなると、家族、地域、職場そして人によっては趣味という区分けができる。
ある人は地域がなく、趣味が入る人もいれば、家族と趣味だけ、という人もいるかもしれない。それはたとえば引きこもりといったかなり通常の社会とは切り離された空間で生活する人がそういう場で生きているということを意味するのだろう。

家族、地域、職場のそれぞれにおいて適正な距離をもって関係を作れるのならば、人生においては問題はすごく少ないものになるだろう、というのは推測できる。
いわばコミュニケーションに長けた人というのはおそらくその能力において何かのリスクをヘッジしている、と見ることもできる。
逆にそういうスキルが低い人ほどリスクを抱え込んでいる、ということに成るのかもしれない。

では、すべての人間に対してコミュニケーションのスキルを学ばせるということが重要なのであろうか。あるいはそれは可能なことなのだろうか。
いやもう少しさかのぼるならば、なぜコミュニケーション力に格差というものが生まれているのだろうか。
もちろん、人間が持つ個体レベルでの資質、才能の差というものはある。誰でもが一流のセールスマンになれるわけではない。
しかし、たとえば機能的な障害が無い限りは、人は日本語で会話したり、簡単な計算が難なくできたりするように、対人コミュニケーションというものも最低限のレベルであればできるのではないだろうか。

ニート8割「働きたい」 でも6割が「対話は苦手」

 仕事も通学も職探しもしていない「ニート」と呼ばれる若者の約8割が「社会や人から感謝される仕事がしたい」と感じていることが、厚生労働省による初の実態調査でわかった。一方で、「人に話すのが不得意」が6割を超えるなど、対人関係への強い苦手意識が就職活動などに二の足を踏む原因になっていることが浮き彫りになった。

しかしながら、こういったアンケートの結果もでている。やはり社会に出て行く上で対人関係をうまく作れる能力というのが必要であると若い人は敏感に感じ、それとともに自分のそういった能力に疑問を感じている。

で、それはなぜなのか。

たとえば家族の形の変化というものがよく言われている。大家族から核家族への変化。これは幼少期からさまざまな人間と接触する機会の損失である。
地域社会の崩壊、世間の消失というものもある。ほかの家庭との接触、違った年代の子どもたちとの接触の機会の損失。
総じて子どもたちはコミュニケーションの練習をせずに大きくなりうる可能性がある、ということがいえるのだろう。

しかし、目を逆のほうに向けてみると、インターネット、ケイタイの圧倒的な普及がある。
文字と文字との交換、声と声の交換。一昔前では考えられない量のそういった情報がやり取りされている。そこではもちろん人と人の情報が交換されているわけだ。
それはコミュニケーションの練習にはならないのだろうか。
もちろん、対面でのコミュニケーションの練習には決してならない。それは電話の向こうで相手が沈黙していたときに痛感できるだろう。目の前で相手が黙っていたとしたらそのときかけるべき言葉というのは浮かんでくるかもしれない。あるいは何も浮かんでこないかもしれない。すくなくとも相手の心境を推察することはできる。
しかし、電話において沈黙はただの沈黙でしかない。電話のこちら側でわかることといえば相手が今話せない、あるいは話したくないという状況に過ぎない。
電話というのはコミュニケーションの形に一定の制約をかけてしまう。その中で培われる力というのは、おそらく表層を追いかけるだけのコミュニケーションでしかない。
長くなるので割愛するが、インターネット、メールでのやり取りも同じようなことだ。
そこで磨かれるのはそれ専用の力であり、対面のコミュニケーション力ではない。
やはり、それぞれに見合った練習というのは必要なのだ。

日本語に不慣れな外国人の話す文章の副詞の使い方を聞くと違和感を感じるのは日本人としては当たり前であろう。外国人にとっては日本語というのはなかなか難しいものらしい。例えば今の文章を「外国人にとっては日本語というのがなかなか難しいものらしい」と言い換えることもできる。そして耳に響くその二つの日本語の文章にはどこかに差異が感じられる。何がどう違うかを文法的に説明できなくとも、伝わるニュアンスは違うと断定することができる。
私たちはそういった細かいレベルでの日本語の違いというのを強く意識しないまま使い分けている。
それは対人対面コミュニケーションにおいても同じことなのだろうと思う。

油断しているとわれわれは人とコミュニケーションをとることが簡単であるかのように感じられる。自分の意思を相手に伝え、相手の意思を受け取るということは日常生活において毎日のように行っていることであり、その大半に苦労することはない、と自分は思ってる。
その意思の交換には実際大きな誤解、ニュアンスの差といものが含まれているかもしれないというのは頭ではわかっているが特に意識することはない。

コミュニケーションのスキルは重要であるし、また難しいものである。だから子どものころから練習の場を与えてスキルを向上させていかなければならない、という認識が今まで無かったのは、子どもたちが当たり前に家族や地域からその場を得ていたからであろう。
しかし、社会の形が変わる中でそういった場が少しずつ姿を消していってしまっている。
親も子どもとほとんど話さず、学校の教師は子どもを苦手とし、地域では公園で遊ぶことすらままならない。そのような環境では人とうまく接する人間が生まれるはずも無い。
おそらく田舎と都市部ではその辺にも格差というのは生まれているのかもしれない。

人は安易な方向に流れがちである。世の中にケイタイがあふれかえっているのもそのためではないだろうか。

人とうまく接することができない人間が、人間社会を構成しつつあるのならば問題が起こって当然といえるだろう。相手の考えていることがわからない、相手の気持ちがわからない、自分の考えを伝えられない、それはひとつの問題である。そしてそこから副産物的にいろいろな問題が再び生み出されていく。
私には今の社会が圧倒的なコミュニケーション不足に陥っているように思える。

それはコミュニケーションが難しいものであるという認識不足からきているのではないか
そのように思えて仕方が無い。そのあたりを基盤としてこれからの社会の構築というものを考えていく必要があると私は思う。

たとえ才能のある作家が渾身の長編小説を書いたとしても、女性が目の前で泣いている状況より大きく感情を動かすことなどできないのではないか、というのはあくまで蛇足である。