さまざまな検定、この国の流れ

世の中にはいろいろなものがあるみたいだ。

毎日検定バング

毎日新聞の提供するサイトなのだが、日本で行われているさまざまな検定の情報という趣旨なのだが、一風変わったものが取り上げられている。

コーヒー検定はまだ納得できるが、海外ドラマ検定、漫画検定、鍋検定、焼肉検定などは「それを取得してどうするんだ」という疑問が上がってこずにはいられない。
漫画検定なんて平たく言えば、オタク検定なわけで、それを誰かに自慢したりするのだろうか。それとも就職が有利になるとか。

まあ、おそらくそういうことはあるまい。要するに完全に趣味の分野で閉じているものなのだろう。
例えば、ブログのアクセス数というのはやはり上がっていけばそれなりの満足感があるものだし、将棋などでも段位というものがある。

このいささか首を傾げたくなるような検定ブームというのは、そういう外部からの自分のスキルの客観的な証明というものが必要に感じられる人々が多いのかもしれない。
そうすることで、少なくとも自分の一部分のポジションは確保できるし、それを他者にしめすことができる。それは一見何かがんばっているようで実は安易な方向に流れているだけのようにも思える。

実際、ニュース時事能力検定なんてこのブログでも散々けなしているが、この検定を持っていても何か実際的な能力があるというわけではなく、単純に時事系の知識に通じているということを証明したに過ぎない。
これはほとんどのこういった試験にいえることなのだろうが、あくまでその瞬間までの知識を試験することしかできていないので、技術的な発展性だとか、今後の知識についてはまったくノータッチである。

おそらく教員免許についてもどうようのことが言えるのかもしれない。あれも知識を有無を問うことしかできずに、人に教育を施す(という表現はあまりよくないかもしれないが)資質にについてはまったく触れない。

先ほどあげたようなたわいもない検定ならば、知識を試してみるというような軽いノリでいいのかもしれないが、日本の国家試験だってにたようなものである。
しかし、一定の試験をパスすれば大きなものが保障される資格もあるのだ。学校の教員、医師、弁護士・・・などは一度きりの試験だけではなく、実地の経験をフィードバックさせた資格のあり方ということが考慮されてしかるべきだろう。

学校の教員については、更新制度が設けられようとしている。ただそれがどのような制度のなるかによって、形だけのものなのか、本当の教師を選別するものになるのかというのは変わってくる。政府がたいした力を発揮できなければ前者のほうになってしまう可能性は高い。

日本でこういった検定が受け入れられる素地というのはおそらく、大学ネームブランドの影響もあるのかもしれない。そこで何を学んだかというよりも大学の名前を重視してきた社会の風潮が、資格をありがたがる価値観に結びついているような気がしないでもない。それは声高に自分の能力を他者に発信するのではなく、「これこれこういう大学をでています」ということで、暗に自分の能力を発信する「謙虚さ」の表れといえるかもしれない。

まあ、若い人たちは難しいことを考えず、取れる資格は取っておけというのが適切なアドバイスなのかもしれません。時代の流れに乗っておいたほうが楽、というのは何時の時代もたしかなことである。ただ、楽と楽しいは違うんだということは認識しておいて欲しいところである。