久間防衛相の失言、あるいはそれ以上

いくらなんでも、アメリカを擁護しすぎではないか、と思うような発言である。

久間防衛相、米国の「原爆投下しょうがない」

 久間章生防衛相は30日、千葉県柏市の麗沢大で講演し、先の大戦での米国の原爆投下について「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と述べた。野党や被爆地からの批判は避けられない見通しで、参院選に影響する可能性も出てきた。安倍政権は新たな火種を抱えることになった。

確かに戦争は悲惨な結果をもたらすものである。理由はどうあれ戦争に参加してしまった以上、その悲惨さというのは受け止めていかなければならないものである。
それに加えて、悲劇の連鎖というのは増大し、より大きな悲劇を起こすということは歴史を振り返らなくても、今の現状でも見えてくるものだ。
どこかで憎しみの連鎖を断ち切らなければもっと大きな被害が出ることだってあるだろう。
しかし、あの原爆投下だけは「しょうがない」といえるものではないだろう。すくなくとも戦争の終結には必要ないものであったということはいえる。原爆という平気は人類が扱うには強力すぎる平気である。そのようなものを二個落とした、というアメリカに対して、日本は特に問題にあげるようなことはしてこなかった。
それはもちろん国防をアメリカ軍に頼っていた、ということもあるし戦後復興にアメリカの協力が必要であった、ということもあるだろう。だから問題として政府が提起してこなかった、ということについては「しょうがない」といえるかもしれない。
しかし、あれが許される行為であったのか、というのは国際的な感覚で考えると「許されないもの」であったのではないだろうか。
戦後からの教育で、徹底的に日本政府、日本軍が悪というイメージを植えつける中で、その悪に対して行使された正義の力という言い訳が成立していたかもしれない。
すくなくとも、アメリカ側にはそこに疑問は無いかもしれない。
しかし、被害を受けた日本は、「戦時中のことだから」とか「戦争を早く終わらせるため」だからといった理由を受け入れるわけにはいかないとおもう。
原爆の投下によって被害をうけた人々の大半は民間人であった。それは極限的な戦争という状況でも許されざる行為であろう。そういう被害を受けた人たちの心境をまったく無視した発言であったのでは無いだろうか。

繰り返すが、現状の日本においてアメリカとの信頼関係というのは重要なものだ。
しかし、この発言は、信頼関係というよりもご機嫌とりにしか感じられない。
主従関係を確認したかのような発言は、日本にとってどのような利益があるのだろうか。
そういう配慮を欠いた発言、アメリカべったりの思想、防衛相としてはやはりふさわしくないように感じる。
これは今までの安倍内閣の大臣の中でも群を抜いて問題があるのではないだろうか。

一人の日本人としては、残念な思いでいっぱいである。