6月の頭に思う

さて、6月である。
夏という季節を意識してしまうように気温の高い日がぼちぼちと出てきている。
まあ、どの季節でもそういっているがとりあえずビールがうまい季節は良い季節である。

それはさておき。

時事系のニュースをメインに取り扱うようになってから、やはりというかなんというかネガティブな記事が多くなってしまった。特にそういう記事だけをピックアップしているつもりはないのだが、これは取り上げないとという記事は大抵陰鬱な事件であり、希望というものがあまり見えてこない。

一応、なるべくはそれ以外の要素を持った文章などもあげようとがんばってはいる。
ネガティブな情報に使っていると、脳のエネルギーも活性化してこない。

ここで言うネガティブというのは、たとえば暗い事件とか悲惨な事故というものではない。もちろんそういった事件の持つ負のエネルギーはかなり大きい。
しかし、ここで言うネガティブというのは、その先が見えてこない、という状況である。
事件自身は解決しても、その背景が見えてこなかったり、あるいは同様の事件が繰り返される中で改善の方法がまったく見えてこなかったり、政府の打つ対策がどう考えても先送りや配置換えでしかないような状況のことである。

そういった状況の中で、明日への希望、すばらしき未来というものが描けるだろうか。
本来は、これからの社会はどのように変化するかはわからない。技術的なものから考えれば人間が受ける恩恵、若い人が活躍する機会の増加、国境というものの希薄化、などプラスに考えられる要素はたくさんあるはずである。
しかし、メディアの中は悲惨な事故と日本ローカルのバカ騒ぎで埋め尽くされている。
暗い現実をそれを覆い隠すカーテン、という構図である。
なんとなく、想像力というものが無力化されつつあるような気もしてしまう。
そんなもの持っていても何一つ楽しいことなんてないよ、と背中でささやかれているような気すらしてくる。

しかし、そういう声は一切無視して、自分の視線からの将来というものがどのように描けるのか、というのが重要だろう。ただ周りをまったく見ないで楽観的に生きていくというのもちょっと違う。おそらくそれでは今後サバイブすることは難しくなってくるだろう。

絶望の可能性を胸に残しながら希望を模索する。これが今後必要になってくる生き方でではないだろうか。